昭和四十五年四月二十日 朝の御理解
X御理解第六十一節 「神より金光大神に何時までも きぬおかげを話しにしておくのぞ。信心しておかげを受けたら信心となりて、人に丁寧に話しをして行くりが眞の道を履んで行とのぞ。金光大神が教えた事を違わぬやうに人に伝えて眞の信心をさせるのが神への御 ぞ、これが神になるのぞ、神になりても、神より上になるとは思ふな」
金光大神がいつ迄も、いつ迄も一きぬおかげの頂かれる道を話しにして残しておって下さる。無尽蔵のおかげ限りのないおかげ、そうゆうおかげの頂けれる道を話しにして残しておって下さった。ですから、金光さまの信心を頂くとゆう事はまずお話しをよくよく頂かなければならんとゆう事ですねぇ。
なる程此方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話しを聞いて助かるとおっしゃる、話しを聞くとゆう事から、そこからね私共が生き方、在り方がはっきりしてくる訳です。これが金光さまの御信心の一番の云わばポイントになるところ。
だから、いくら長い間信心しておるからと云うて、なる程その時、その時をおかげは受けるかもしれませんけれども、いつ迄も尽きぬおかげの頂けれるとゆう事でなからなければならないとゆう事。
それには金光大神が教えて下さった事を、それを話しにして残しておくとおっしゃるのですから、いかにその話しが大変な事ですねぇ、だからその話しを私共が云うなら命をかけて、いわゆる一生懸命とゆう事がですねぇ、一生懸命にそのお話しを頂かせて、頂かなければならないかとゆう事がうかがわれます。この六十一節を頂きますと‥‥‥。
ですから、その きぬおかげの頂けれる道と云うか、そうゆうひとつの軌道に乗ると云うか、そこんところをひとつ大事にしてゆかねばならんと思う。
信心しておかげを受けたら、信心となりて丁寧に人に話しをして行くのが神への御 ぞ、と。次にはそうゆうう信心を頂く、そうゆう信心とは、話しを聞いて助かる信心、話しを聞いて助かる道を体得する、そうゆう道を体得したら、それを人に伝えていく、しかもそれは丁寧に伝えていく、それがねいわゆる眞の道の軌道をあやまつ事なく歩いていく事になるのです。
しかもそうしていく事によって自分の頂いておる信心を確かめていく事が出来る。ここの確かめをしていきませんとね、信心が上達して参りませんやうですねぇ。
時々、私共がそうゆう間違いのない軌道を歩いておると云うてもです。やはり人間の事でございますから、どこから間違えておるか分かりませんから、金光大神が教えた事を違わぬやうにとゆうところ。
自分自身が違わぬやうにとゆうところ、とゆうやうなですねぇ、そこにひとつの立ち止まりと云うか、振り返ってみると云うか、猛反省をさせて頂くとゆうか、そうゆう例えば道を違わぬやうに、間違いない事の為に、そこに念を入れてゆかなければならないとゆう事です。
例えて申しますと十日のここの月次祭から、おしめり続きですねぇ、ここのお祭りごとと云うと大体合楽のお祭りにおしめりは全然無いものと、お互いが確信する程に思うておった。例えば、今日の御大祭だと云うのにもう夏の雨のやうな雨が昨夜来からおしめりを頂いておるとゆう事。
そうゆうやうな例えば事にです、まあ云うなら直面した時です。私共は云うなら立ち止まってみると云うか、自分の進めていっておる軌道とゆうものが違っていきよりやせんだろうかと間違っていきよりやせんだろうかと、云うならば、そこのところをひとつの時点としてです。そこのところが深く大事にされていかなければならん所ではなかろうかと私共のひた進みに進んでいくその進め方の中にもです。只今申しますやうに、金光大神が教えた事を違わぬやうにとゆうつもりではおるけれども、只つもりだけではいけん。
そこでそれを確かめてみるとゆう私は周到さと云うかね、やはり云うなら石橋とたたいて渡るやうな思いでです。前後を振り返ってみて、おかげを頂いてゆかなければならない。その時々のその時に於いてです。私共の信心がです。眞の道をいよいよ進めていく事が出来る。そうしてその確かめた上、自分がこれならと思う、私は道、又はおかげ、又は信心をです。人に伝えてゆかなければならんと思う。金光大神が教えた事を間違いがないやうに伝えてゆかなければならん。
よく、金光さまに参ったら、おかげを頂ける、御利益があると、その事だけを人に伝えて、だから何にも知らない人は、ちょっと関心を寄せますねぇ。医者の見放した病人でも助かったですよとか、助かりますよ、とか。例えば、ちょっと知らない者なら、眼を見はるやうな事を云うてです。なる程、それも嘘でない又事実であるから、云わねばならないけれども、その事だけをです。私は人に伝えるとゆうやうな事であったら、必ず間違うてくると思う。あんたがあげん云いよったばってんこうじゃないかとゆう事になってくる。
金光大神の教えられた事を間違いなく伝えてゆかなければならん、そうゆう間違いなく、自分自身がそれを頂いてゆかねばならん、そこから生まれてくる所のおかげなんです。これを話さなければいけん。
金光大神が教えて下さった事を、私なりに履み行わせて頂き、たどらせて頂いておりましたら、自分の気持ちの上にも、このやうにおかげを頂いた。間違いのない信心だと思います、確信する、それを伝えてゆかなければいかん。
それでもなおかつです、そうゆう信心進めていきながらもです。様々なひとつの問題に直面する、そのつどつどにです。そこのところの時点をです。その時点に立ってのです。よき信心の反省がなされなければ‥‥‥。
金光大神が教えた事を違わぬやうに人に伝えていく、それが眞の信心をさせるのが神へのお礼です、ですから。唯、奇跡的なおかげを頂くとか、そうゆうおかげを頂くからと云うてお導きをするとゆうのはです。
それは眞の信心にはならない。眞の信心をさせるのが神へのお礼をおっしゃる‥‥‥。眞の信心をさせるのが神へのお礼である為には、まず自分自身が眞の道をたどらせて頂いておるかをいつも確かめていくのである。
神さまへのお礼になる、それは神さまが一番喜んで下さる事であろうと思います。神さまのお礼になるとゆう信心こそ‥‥‥。その神さまのお喜びがどうゆう事になってくるかと云うと、私共が又喜ばせて頂けれるおかげ、云うなら私共に与えて下さる信心の喜びが、その信心の喜びを神さまは与えて下さる。その信心の喜びに又、 きぬ、いわゆるおかげがこれは約束される訳です。これは願わんでも頼んでも頂けれるおかげ、神さまに喜んで頂く為の信心。
ですから、そんなら今日の御大祭でも神さまにお喜び頂ける為の信心としてです。その神さまのお喜びが、私共一人、一人の上にひびさかえってくる、それを頂きたいのが私は大祭だと思うですねぇ。
ですから、その大祭をおかげの頂けれるひとつの時点としてです、私共が大事に頂いてゆかなければならん。やれやれ、大祭が済んだと、盛大な大祭りだったとゆうだけではならん。
その神さまの私共がお礼のお祭りをさせて頂くのでございますから、そのお礼をね、神さまが受けて下さり、喜んで下さる。その喜びがね、必ず私共の心にひびき返ってくる、それを私は信心の喜びだと、今日は申しております。いわゆる法悦であります。その信心の喜びにです。おかげは約束される。
なる程、金光大神が教えられた事を人に伝えていく。そして、眞の信心をさせるのが神へのお礼ぞとおっしゃるから、そうゆうお礼の信心が日々出来ていくならばです。なる程、それが神になるのだなとゆう事が分かります。金光教で云うところの神がです。わが心がいよいよ神に向かうて近付いていく、信心の喜びがいやが上にも、本当なものに有り難いものになってくる。
それでもやっぱり人間がです。それでもやっぱり八間ですから、いわゆるそれでも思い上がりが出来て来る。そこんところをです。私はいつも、心がけさせて頂きませんとです。神より上になるやうな思い上がった。神さまより上になろうとは思いませんと、誰でも思いますけれども、実際はです。神さまと自分勝手に自分の都合で神さまと使いまわそうとするやうな、信心ですよねぇ、これは神さまより上になったやうなもんです。神さまを云うなら、あごの先で使おうとする、それも自分の考えを中心にして、神さまを使おうとする。
それはね、実を云うたら神さまは、働いてもらわねばおられんのだ。それは神さまにはね、すがらなければおられないのだ。それが私達。
けれどもすがらなければおられない私達と、例えばゆうべの前夜祭に私が頂きましたやうに「給え」と、おかげを頂かせ給えと、こうして願い、いわゆる前夜祭は給えのお祭りだと。
ですから、私共はいつもその神さまどうぞとゆう、祈りとか願いとかゆうものはいつも持っているのです。そんなら神さまを使う事が出来んなら、給えとゆう事を使うちゃ出来んといったやうな事ではなくてです。いよいよ自分自身とゆう者の、無能無力であるとゆう事を確認したらね。それを認めたらです。すがらなければおられないのである。
けれども、そこにはね、先日から申しますやうにもう非常に純粋なもの、それは丁度、乳のみ児が母親のひざにそれこそ何のこだわりもなく、はい上がっていくやうな純真さがそこには求められるのです。
そうゆう例えば純度の高い精神をもってね、神さまは使わん分が損、といったやうな自分勝手に神さまを使いまわそうにするとゆう事が、私はこれは神よりも上になるやうな事じゃないでしょうか。
ここのところはもっともっといろいろな意味があるやうに思います。そこで私はここのところをです。今日は思うのにです。これをずっと拝読させて頂きながら、はたして私はこのやうなおかげを頂いてきておるが、はたして私は丁寧に人に伝えてきたであろうかとゆう事。
確かに伝えてはきた。云うなら、おごりまわるやうにして、伝えたのじゃなかろうか。そこで今日はとりわけこの丁寧なとゆうところ、丁寧に人に話しをしてゆくのがとおっしゃる、だから改めて私がおかげ頂いてきた事をです。皆さんに改めて聞いて頂くならです。今日、私が皆さんに何回も聞いて頂くです。その時点に於いてです。私は私なりに一生懸命にその事を大事にしてきたとゆう事です。
それはそんなら、終戦、そして引揚げとまあその時分から、この方の信心を振り返ってみるとです。その一言に尽きるやうに思うのです。いわゆるその時、その時の成り行きそのものを大切にしてきたとゆう事です。そして、それがです。大変な事であったなとゆう事、それは大ごとだったとゆうのではなくてです。その成り行きを大切にしてきた。その事が何にも分からんなりにです。そうゆう願いをかけたとゆう事。私は本当によい所に着眼し、よい所に気がついたと思う事はです。敗戦と同時に日本全体がみじめな事になって参りました。その中の一人として、私もその敗戦のみじめさを味わさせて頂いて、そのみじめさに立った時です。結局私共信心させて頂く者の全部の信心が間違うておった事が、私自身が間違った信心をしておったとゆう事に気付かせて頂いて、これからはです、これからはひとつ本当の信心を頂きたいと念願して、眞の信心を本当に頂きたい。今迄の信心は眞の信心ではなかったんだと、気付かせて頂いて、眞の信心をさせて頂こうと念願したところから、まず考えられた事はです。云うなら、自然に起こってくるといったやうな事柄をです。私の上に云わば上から下に流れついてくる難儀と云うか問題とゆうものをです。それをひとつ不平不足を云わずに受けていこうとゆう決心と修行を思い立ったとゆう事です。今から思うと大変な事を思いついたなと自分で思います。
もうそしてです。それは根かぎり大切にしてきたやうに思います。それはいつもお話しを申します通りでございます。
そうしておりましたらです。そうゆう例えば自然の働きであったとはっきり分かるやうになったのは、私は椛目で五年祭を仕える頃からだったと思います。 それ迄は只がむしゃらに何にも分からんままに、只それを修行と思うて一生懸命にどのやうな事でも受けてきた。金を下さいと云う者にはお賽銭箱をひっくりかえしてあげました。もうはしにも棒にもかからないやうな病人をです。先生お願いしますと云や私の家に預かってそして一緒に信心させて頂きました。 眼の見えない見てないもう老人を、それこそまるきっり椛目は今から考えると、うば捨て山のごと思うてから、連れてきたつじやろうかと思うてですね。そうゆう盲のおじいさんを預かった事もございました。
その時十二才になっておりました。けれどもその病人が小児結核である熱心な御信者さんが連れて参りました時に、私はその人を抱いてから、もう抱きながら泣きました。ちょっと両手でかかえる位、こんなに軽かったのです。
もうやせられるだけやせて十三才になるとゆうのにです。それを私は抱いてから、もう旧身の親ですらが、もう見きらんごとなっとるとです。勿論金もなからなければ身よりも有ってかまわないと云うのですから‥‥‥。
父親が私の方へそれを連れて参りました。こうゆう病人を、どうして家で預かるかと、云ならば、云えるやうな者でもです。けれどもね神さまに、こうゆうお誓いを立てておるから受けるとゆう気持ちじゃひとつつも今から考えるとなかったです。
もう只その子供をかかえた時です。これは神さまが私でなからな見きらんと思うたです。まあ、そうゆう例は他にもいくらもございました、もうそれこそ、青びょうたんのやうな人達が十何人もあの狭い所にうようよしておるとゆう、そうゆう時代が椛目にも有りました。
ただしそれはもうきっちり四年半でした。もう後は半年で五年祭を仕えるとゆう後の半年にはもうそうゆうのはことわった訳でもないのに、一掃されたやうにそうゆう事がなくなりました。考えてみると神さまの御都合だったなあと思います。もうそれは様々な事がございました。
私が検察庁にひっぱられていくやうな事が有りました。云うなら合楽の受難時代と云うてもいい位ですけれども、それを私はひとつも受難と思わなかった、それをもうひた受けに受けていったとゆう事です。
そらもう警察に呼ばれて、まるきっり罪人扱いですよねぇ、そうゆう中をです、おかげを頂いて参りましたが、その事をね、云うならば合掌して受けてきたのはああゆう事だったろうと思いますやうに受けて参りました。
その後に於いても様々な問題が有りましたけれども、やはりその事を神さまのお働きとして、その頃は受けて参りました。四年半迄は、只そうゆう修行させて頂いておるとゆうだけだったですから、それが神さまの働きとゆう風には思わなかったんですよ。
ところが段々分からして頂いた事は、その事自体がね、天地の親神さまの働きである事に気付かせて頂いたんです。そこからですね、これは大変な事だと思うやうになった。成り行きを大事にするとゆう事は‥‥‥。
神さまを大事にする、大事にする、大事にすると云うて大底神さまを大事にしてきたつもりだったけれども、神さまの働きそのものを大事にしなかったら、もう神さまを大事にした事でないとゆう事をもうはっきり言えれるやうになったのは、あの五年祭位からでした。
そこで、いよいよその働きその事が神さまの働きなのだからそれを大事にしていくとゆう、自分もその事を行じ、又皆さんにもそれを云うて参りましたがです。それをはたして丁寧に皆さんに伝えて来たであろうかと、その丁寧とゆう事にはいろいろ限りが有りますけれども、いよいよですね、そうゆう大変なおかげを受けてきとるのでありますから、これからとてもです。その事をいよいよ本気で丁寧に伝えてゆかなければならないなあとゆう風に思うのでございます。
どうぞ、ひとつ皆さんの信心の過程と云うか、おかげを受けられた道をひとつ振り返ってみられて、これだけははっきり人に丁寧に伝えれるとゆものをです。自分の信心を確かめる意味に於いてです。おかげを頂いてゆかねばならない。
そして間違いのないその事ですらもです。人間生身の事ですから、どこにお粗末が有るやら、御無礼が有るやら分からんのでございますからです、そうゆう様々な、今日私が今日の大祭を迎えるに当たってです、天地はどのやうな思いをもってこのおしめりを合楽の上に下さってあるのであろうか、ここに私は大いなるひとつの反省と云うか、そこの時点に立ってです。私がそこのところが分からして頂くところからです。これから又大いなる信心に、一歩前進する事が出来るだろうと思うております。
只、降る事もおかげ照る事もおかげだからと云ったやうな簡単なね、頂き方でなくて、その時点とゆうものを大事にするとゆう事はね、そうゆう事だと思うのです。その事を通してです。間違ってはいないか、軌道をそれては行きよらんかと、ゆう風にです。検討させて頂くとゆうところから、いよいよ金光大神の教えた事を違わぬやうに教えて伝えてゆう事が出来る。
そして、いよいよ神へのお礼ぞとおっしゃる神さまへのお礼がね、私共の実意丁寧におかげを受けて、人に伝えて行くのが、神さまへのお礼になる事ならばです。その事をいよいよ進めていこうとゆう決心に立たなければならないと私は思います。
それでいても、やはり人間生身を持っている事ですから、どこからお粗末御無礼のきざしといったやうなものがね、出来てくるか分かりません。それがね、自分では仲々分かりません。そこで様々な問題に直面するつどにです。その時点に立って反省して神より上になるやうな大それた思いが、起こって参りませんやうにおかげを受けてゆかねばならんと思うですね。どうぞ。